独りよがりにならないためのレッスン その1

1・不親切なのに多用される「別の作品たとえ」

 

レビューだろうが評論だろうが、小説や映画、音楽といった作品を紹介する際に、わざわざ他の作品をダシにモノを語るのが好きではない。

 

「この小説のシーンは、さながらアメリカの小説『クジラの佃煮は塩辛い』に描かれる船長と愛人の印象的な会話を想起させ・・・」とか

「アルバムの3番目『恋と花火とスットコドッコイ』からは、リチャード・カールの『海ぶどうをおかずに』に出てくる"夕方に歯を磨いたら前歯が折れた"の言葉が聴こえてくるようだ」とか

「さながらベンザリン氏が晩年に記した著書『朝ごはんはパンがいい』の名言がそのまま映画になったかのような」とか、そういう感じのやつ。なかには、他の作品をまんま引用して終わりっていう始末に負えないものもある。

 

飲みの席とかでうまいモノの例えが思い浮かばなくて、「あの作品みたいな感じ」と逃げるように紹介してしまうのは、しょうがないと思う。しかし、なんでもかんでも「他の作品たとえ」でしか語れなくなったら、やっぱりダメだろう。

 

僕は仕事で紹介記事を書く際、よほど紹介する必要がある場合以外は、極力「他の作品たとえ」を避ける。それは、自分の好みの問題以上に、読者に不親切だと思うからだ。

 

たとえば僕が、とある商店街のアンパンをレビューしなきゃいけない時に、「この店のアンパンのあんこは、さながら『中村屋』のようですね」って書いたとする。『中村屋』を知っている読者はそれを読んだら、「じゃあ『中村屋』で済ませばいっかな」って思うかもしれない。『中村屋』を知らない読者であれば「その店の味を知らないのに、想像できるわけないじゃん」と怒りを露わにするかもしれない。

 

ここで『他の作品たとえ』が招いている不親切は大きく2つある。1つは「作品たとえによって、紹介したい商品の魅力部分に焦点が合わない」という不親切。もう1つは「商品の魅力を知るためには、書き手の知識水準に合っていないといけない」という不親切。いずれも書き手の独りよがりに振り回されているのだ。

 

しかし巷にあふれる書評とか映画評とか読むと、このパターンめちゃくちゃ多い。そういうのに出くわすたびに「なんで他の作品を引き合いにだすんだ! 作品そのものの魅力を紹介しろ!」とイライラする。一方で自分がそんなパターンになっていないか不安になる。それにしてもどうしてそんなパターンを当の書き手は使ってしまうのだろうか?

 

2・独りよがりの評論家が生まれるまで

 

さっきのアンパンの例から引き続き考えよう。僕はとある編集者から「ゆりいかさんはアンパンについての知識がおありでしょうから、アンパンの魅力を語ってください」と打診され、気軽に「あ、いっすよ」と答える。この時、僕の中には膨大な「アンパンについての引き出し」があるとする。幾年にもわたる研究と調査から生まれた、たくさんのアンパンにまつわる知識があり「あのアンパンと、このアンパンは似ている、なぜなら同じ素材だからだ」というのを常日頃考えている。さながら脳内には昆虫標本のようなかたちで「アンパン標本」があり、標本のことを常に意識してアンパンを評してる状態である。

 

僕は頭の中の「アンパン標本」をイメージしながら、常に格付けをする。「これはいいアンパンで、これは悪いアンパンだ」という判断や「これは果たしてアンパンのジャンルに含めていいのだろうか」と、手前勝手な基準で切り捨てたり拾い上げたりする。そうやって自分の中に「アンパンの教養」が醸成される。

 

 出来上がった「アンパンの教養」は自分の頭の中だけにある正しさだ。しかし時間を費やして研究したというプライドが「自分の頭の中はあらゆる人に共有されていない」という現実を無視させる。そうして他人からの見え方を想定しないままに進むと「俺はこんなにも研究に時間を費やしたのだから、この教養は正しい」と「この教養は正しいのだから、俺の費やした時間はムダじゃない」というふたつの思考が互いを補強しあってグルグルと回り出す。うずたかく重ねたプライドの壁でまわりが見えない、独りよがりのアンパン評論家の誕生である。

 

独りよがりのアンパン評論家である僕が、アンパンについて書く。すると頭の中の「アンパンの教養」が頭をもたげてきて、「僕が学んだ最強の教養を見てくれ!」になる。こういうモードになると評論家はとにかく「自分が学んできたこと」を紹介したくて仕方がないので、「他の作品の名前」を急に持ち出し、「あれと似てる、これとは違う」と言い出す。その結果が「この店のアンパンのあんこは、さながら『中村屋』のようですね」である。この時点で、読者が知りたかったはずの「その店のアンパンの魅力」から方向性が大きくズレていることに、もう気づかない。

 

「アンパンの教養」を面白がるのは、ある程度アンパンの教養に興味がある人だけ。しかも「僕の考えた」という前提が存在している。つまり、独りよがりのアンパン評論家である僕の文章は「独りよがりのアンパン評論家である僕」に興味がある人しか読まなくなっているのだ。そこにどれだけの需要があるかは知らない。ただ、腹が減ってる時にめんどくさい評論家の料理のうんちくを聞かされるよりは、さっさと何を食べられるかを決められる文章の方が大事のように思う。

 

3・「あーめんどくさい人なんだな」って思われてます

 

なんだか馬鹿にしているような書きぶりになってしまったが、これは僕の自戒も相当に込められていることを頭の隅っこに入れておいて欲しい(そして許して欲しい)。この問題は、今の僕が一生懸命立ち向かっていることでもあるのだから。

 

 

「いや、俺は独りよがりとかじゃねーし、ちゃんと大学で研究した成果だし!」とか「その教養にある程度のデータの実証、裏付けがあるのなら、やはりそれは正しいし、よいことなのでは?」とかって声もありそうだ。誤解しないでほしいのは、僕は教養を叩いているのではない。教養で殴ろうとしてくる人の態度が問題だといっているだけである。頭の中の教養は、自分の頭の中にしかない。それを前提のものとして紹介しようとする態度は「僕のこと分かってよ!」と甘える子どもみたいな感じだ。何度も繰り返すが「教養」にも「自分」にも興味のない人に、どうやって対象の作品の良さを伝えられるのかが、大事なことなんじゃないだろうか。

 

 

この店のアンパンのあんこは、『中村屋』と同じものを思い出します」を有難がる人も多分いる。そのことについてはまた改めて書くけれど、その読み手の問題もまた、プライドと教養がグルグルとした状況から生まれたものであることは言える。

 

とにかくプライドはめんどくさい。これをコントロールするのは大変な知性が必要だし、その知性は一朝一夕で身につくものじゃない。抑えておくべきことは、プライドが言動や態度、文章から透けて見えた時「あーめんどくさい人なんだな」って誰かに必ず思われているってことだ。ずっと周囲にめんどくさい人間であると思われている僕が言うのだから、まず間違いない。気をつけよう。