上京物語はだれのもの

「東京というのは田舎モノの集まりだ」

 人生の中で何度か耳にした言葉は、ある意味、真実で間違いないだろう。 

なぜならそれを口にするのは田舎モノで、彼らの語る「東京」の中に、「東京を地元にする人間」は含まれていないのだから。

酒の席で、初めての人とでもだいたい盛り上がれる話題に、「地元トーク」というのがある。

「君はどこ出身?あー。あれの名産地だね」
「君◯◯出身でしょ?あそこの店行かなかった?」
「◯◯出身のやつに悪いやつなんかいないよー」
とか、まぁこんな感じである。

結局、「東京は田舎モノの集まり」であることを前提とした会話のやり取りである。会話が始まると、だいたい東京が地元の人の口は閉ざされる。無理に話に入ろうとしても、何か違和感をお互いに感じあって終わってしまう。

僕は北九州出身の田舎モノなので、地元についての(ネガティブな)会話は好きで、バーでもネタを(必要と思うときは)話してしまう。

地元がいかに嫌だったか、東京にきてどれだけよかったか、という話になるのだが、その時に僕の語る東京と、地元が東京の人間との間には、やはり溝ができる。

一体なんなのだろうと、ぼんやり考えていたのだけど、バーに来てくれてる若い男の子(東京出身)の子がとても鋭い指摘をしてくれた。

「ゆりいかさん、東京の人間には、上京物語がないんですよ」

ハッとした。僕らが地元の話に花を咲かせられるのは、そこに「上京物語」というストーリーの基盤があるからだ。自分がいつどのようにして田舎から抜け出し、東京に来たのかを話せてしまう。そのストーリーの中には、寂しさや怒り、地元愛など、なんでも注ぎ込めてしまえる。

東京出身の人間に上京物語は描けない。

もし、その人が地方に行ってもそれは、悪く言うなら「都落ち」の話として受け取られる。

「あら、東京から来なさったの?」と地元の人たちから珍しいモノを見るような目を向けられ、地元に溶け込むには地元の雰囲気になじむしか方法はなくて、「東京にいた頃の自分」を変質させるしかない。

対して、地方から出てきた人間は「東京に馴染む」をあまり必要としない。なぜなら、周りの多くは「地元の空気が嫌で逃げてきたけど、新しい空気に抑圧されるのも嫌なので、なるべく今の自分のままでいたい」という、ある意味でワガママな人間が集まっていて、そうした人たちの作り出す空気が「東京に馴染む」ということをしなくて済むからだ。(東京で意地でも方言使い続ける人たち、いるでしょ?)

自分の本質的なところを変えずに、むしろ束縛なく存分に肥大させることを「都会に染まる」というのだと思う。 

なんだか地方から上京した人間のクセに同じ境遇の人間のことを悪く書きすぎだが、もちろん、これは僕に当てはまっていることなので、分かることなのだ。

上京物語というのは、そんなワガママをして、どうして自分は許されるのかという拠り所を語る物語である。だから、上京前には悲哀が生まれるし、上京後の開放感を伸び伸びと語れる。時折、それでも捨てきれないノスタルジーを語れば、なんだか美談にもとれるんだから、便利なものだ。

中島みゆきの「ファイト!」がすごいのは、歌詞の中身は上京失敗物語で、自分を殺して古い因習に沈む人々の怨念が込められていて、それでいて「都会に出てきた人間たちのわがままな冷たさ」も同時に歌われているという、恐ろしい歌だからだ。

以前、マツコデラックスが何かの媒体で、「東京にいる人間は、東京に来て変わりたかったというが、本当は変わりたくなかったから上京したのだ」といった内容の話をしていたが、僕はこの発言に尽きると思う。

だから、地元が東京出身の人間の上京物語は、ない。あったとしても、それは「田舎から出てきた人間から語られる上京物語に影響を受けたもの」でしかない。

東京の人たちは田舎モノから耳にする上京物語を聞いて、そんな憧れを地元に持っていないことに気づいて、ただ寂しい。ワガママな田舎モノからすれば、その寂しさは、「初めから東京にいるクセになに言ってやがる」になってはねのけられるので、余計に寂しい。

上京物語とは、結局「上京物語を通して自分のワガママとそれに至る経緯を語り、共感する」というようなものに過ぎないのかもしれない。しれないけど、田舎モノだって寂しいは寂しいし、田舎にいたらもっと寂しかったかもしれないと怯えているのだ。

お互いで寂しさの度合いを測りあうような競争は、おそらく無意味だ。しかし、お互いの寂しさを認めて、優しくし合うことには意味があると、僕は思う。

田舎モノと東京の人、どちらにも優しい上京物語があればいいのだけど、それは何も別に「上京」がテーマでなくてもいいかもしれない。