独りよがりにならないためのレッスン その1

1・不親切なのに多用される「別の作品たとえ」

 

レビューだろうが評論だろうが、小説や映画、音楽といった作品を紹介する際に、わざわざ他の作品をダシにモノを語るのが好きではない。

 

「この小説のシーンは、さながらアメリカの小説『クジラの佃煮は塩辛い』に描かれる船長と愛人の印象的な会話を想起させ・・・」とか

「アルバムの3番目『恋と花火とスットコドッコイ』からは、リチャード・カールの『海ぶどうをおかずに』に出てくる"夕方に歯を磨いたら前歯が折れた"の言葉が聴こえてくるようだ」とか

「さながらベンザリン氏が晩年に記した著書『朝ごはんはパンがいい』の名言がそのまま映画になったかのような」とか、そういう感じのやつ。なかには、他の作品をまんま引用して終わりっていう始末に負えないものもある。

 

飲みの席とかでうまいモノの例えが思い浮かばなくて、「あの作品みたいな感じ」と逃げるように紹介してしまうのは、しょうがないと思う。しかし、なんでもかんでも「他の作品たとえ」でしか語れなくなったら、やっぱりダメだろう。

 

僕は仕事で紹介記事を書く際、よほど紹介する必要がある場合以外は、極力「他の作品たとえ」を避ける。それは、自分の好みの問題以上に、読者に不親切だと思うからだ。

 

たとえば僕が、とある商店街のアンパンをレビューしなきゃいけない時に、「この店のアンパンのあんこは、さながら『中村屋』のようですね」って書いたとする。『中村屋』を知っている読者はそれを読んだら、「じゃあ『中村屋』で済ませばいっかな」って思うかもしれない。『中村屋』を知らない読者であれば「その店の味を知らないのに、想像できるわけないじゃん」と怒りを露わにするかもしれない。

 

ここで『他の作品たとえ』が招いている不親切は大きく2つある。1つは「作品たとえによって、紹介したい商品の魅力部分に焦点が合わない」という不親切。もう1つは「商品の魅力を知るためには、書き手の知識水準に合っていないといけない」という不親切。いずれも書き手の独りよがりに振り回されているのだ。

 

しかし巷にあふれる書評とか映画評とか読むと、このパターンめちゃくちゃ多い。そういうのに出くわすたびに「なんで他の作品を引き合いにだすんだ! 作品そのものの魅力を紹介しろ!」とイライラする。一方で自分がそんなパターンになっていないか不安になる。それにしてもどうしてそんなパターンを当の書き手は使ってしまうのだろうか?

 

2・独りよがりの評論家が生まれるまで

 

さっきのアンパンの例から引き続き考えよう。僕はとある編集者から「ゆりいかさんはアンパンについての知識がおありでしょうから、アンパンの魅力を語ってください」と打診され、気軽に「あ、いっすよ」と答える。この時、僕の中には膨大な「アンパンについての引き出し」があるとする。幾年にもわたる研究と調査から生まれた、たくさんのアンパンにまつわる知識があり「あのアンパンと、このアンパンは似ている、なぜなら同じ素材だからだ」というのを常日頃考えている。さながら脳内には昆虫標本のようなかたちで「アンパン標本」があり、標本のことを常に意識してアンパンを評してる状態である。

 

僕は頭の中の「アンパン標本」をイメージしながら、常に格付けをする。「これはいいアンパンで、これは悪いアンパンだ」という判断や「これは果たしてアンパンのジャンルに含めていいのだろうか」と、手前勝手な基準で切り捨てたり拾い上げたりする。そうやって自分の中に「アンパンの教養」が醸成される。

 

 出来上がった「アンパンの教養」は自分の頭の中だけにある正しさだ。しかし時間を費やして研究したというプライドが「自分の頭の中はあらゆる人に共有されていない」という現実を無視させる。そうして他人からの見え方を想定しないままに進むと「俺はこんなにも研究に時間を費やしたのだから、この教養は正しい」と「この教養は正しいのだから、俺の費やした時間はムダじゃない」というふたつの思考が互いを補強しあってグルグルと回り出す。うずたかく重ねたプライドの壁でまわりが見えない、独りよがりのアンパン評論家の誕生である。

 

独りよがりのアンパン評論家である僕が、アンパンについて書く。すると頭の中の「アンパンの教養」が頭をもたげてきて、「僕が学んだ最強の教養を見てくれ!」になる。こういうモードになると評論家はとにかく「自分が学んできたこと」を紹介したくて仕方がないので、「他の作品の名前」を急に持ち出し、「あれと似てる、これとは違う」と言い出す。その結果が「この店のアンパンのあんこは、さながら『中村屋』のようですね」である。この時点で、読者が知りたかったはずの「その店のアンパンの魅力」から方向性が大きくズレていることに、もう気づかない。

 

「アンパンの教養」を面白がるのは、ある程度アンパンの教養に興味がある人だけ。しかも「僕の考えた」という前提が存在している。つまり、独りよがりのアンパン評論家である僕の文章は「独りよがりのアンパン評論家である僕」に興味がある人しか読まなくなっているのだ。そこにどれだけの需要があるかは知らない。ただ、腹が減ってる時にめんどくさい評論家の料理のうんちくを聞かされるよりは、さっさと何を食べられるかを決められる文章の方が大事のように思う。

 

3・「あーめんどくさい人なんだな」って思われてます

 

なんだか馬鹿にしているような書きぶりになってしまったが、これは僕の自戒も相当に込められていることを頭の隅っこに入れておいて欲しい(そして許して欲しい)。この問題は、今の僕が一生懸命立ち向かっていることでもあるのだから。

 

 

「いや、俺は独りよがりとかじゃねーし、ちゃんと大学で研究した成果だし!」とか「その教養にある程度のデータの実証、裏付けがあるのなら、やはりそれは正しいし、よいことなのでは?」とかって声もありそうだ。誤解しないでほしいのは、僕は教養を叩いているのではない。教養で殴ろうとしてくる人の態度が問題だといっているだけである。頭の中の教養は、自分の頭の中にしかない。それを前提のものとして紹介しようとする態度は「僕のこと分かってよ!」と甘える子どもみたいな感じだ。何度も繰り返すが「教養」にも「自分」にも興味のない人に、どうやって対象の作品の良さを伝えられるのかが、大事なことなんじゃないだろうか。

 

 

この店のアンパンのあんこは、『中村屋』と同じものを思い出します」を有難がる人も多分いる。そのことについてはまた改めて書くけれど、その読み手の問題もまた、プライドと教養がグルグルとした状況から生まれたものであることは言える。

 

とにかくプライドはめんどくさい。これをコントロールするのは大変な知性が必要だし、その知性は一朝一夕で身につくものじゃない。抑えておくべきことは、プライドが言動や態度、文章から透けて見えた時「あーめんどくさい人なんだな」って誰かに必ず思われているってことだ。ずっと周囲にめんどくさい人間であると思われている僕が言うのだから、まず間違いない。気をつけよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上京物語はだれのもの

「東京というのは田舎モノの集まりだ」

 人生の中で何度か耳にした言葉は、ある意味、真実で間違いないだろう。 

なぜならそれを口にするのは田舎モノで、彼らの語る「東京」の中に、「東京を地元にする人間」は含まれていないのだから。

酒の席で、初めての人とでもだいたい盛り上がれる話題に、「地元トーク」というのがある。

「君はどこ出身?あー。あれの名産地だね」
「君◯◯出身でしょ?あそこの店行かなかった?」
「◯◯出身のやつに悪いやつなんかいないよー」
とか、まぁこんな感じである。

結局、「東京は田舎モノの集まり」であることを前提とした会話のやり取りである。会話が始まると、だいたい東京が地元の人の口は閉ざされる。無理に話に入ろうとしても、何か違和感をお互いに感じあって終わってしまう。

僕は北九州出身の田舎モノなので、地元についての(ネガティブな)会話は好きで、バーでもネタを(必要と思うときは)話してしまう。

地元がいかに嫌だったか、東京にきてどれだけよかったか、という話になるのだが、その時に僕の語る東京と、地元が東京の人間との間には、やはり溝ができる。

一体なんなのだろうと、ぼんやり考えていたのだけど、バーに来てくれてる若い男の子(東京出身)の子がとても鋭い指摘をしてくれた。

「ゆりいかさん、東京の人間には、上京物語がないんですよ」

ハッとした。僕らが地元の話に花を咲かせられるのは、そこに「上京物語」というストーリーの基盤があるからだ。自分がいつどのようにして田舎から抜け出し、東京に来たのかを話せてしまう。そのストーリーの中には、寂しさや怒り、地元愛など、なんでも注ぎ込めてしまえる。

東京出身の人間に上京物語は描けない。

もし、その人が地方に行ってもそれは、悪く言うなら「都落ち」の話として受け取られる。

「あら、東京から来なさったの?」と地元の人たちから珍しいモノを見るような目を向けられ、地元に溶け込むには地元の雰囲気になじむしか方法はなくて、「東京にいた頃の自分」を変質させるしかない。

対して、地方から出てきた人間は「東京に馴染む」をあまり必要としない。なぜなら、周りの多くは「地元の空気が嫌で逃げてきたけど、新しい空気に抑圧されるのも嫌なので、なるべく今の自分のままでいたい」という、ある意味でワガママな人間が集まっていて、そうした人たちの作り出す空気が「東京に馴染む」ということをしなくて済むからだ。(東京で意地でも方言使い続ける人たち、いるでしょ?)

自分の本質的なところを変えずに、むしろ束縛なく存分に肥大させることを「都会に染まる」というのだと思う。 

なんだか地方から上京した人間のクセに同じ境遇の人間のことを悪く書きすぎだが、もちろん、これは僕に当てはまっていることなので、分かることなのだ。

上京物語というのは、そんなワガママをして、どうして自分は許されるのかという拠り所を語る物語である。だから、上京前には悲哀が生まれるし、上京後の開放感を伸び伸びと語れる。時折、それでも捨てきれないノスタルジーを語れば、なんだか美談にもとれるんだから、便利なものだ。

中島みゆきの「ファイト!」がすごいのは、歌詞の中身は上京失敗物語で、自分を殺して古い因習に沈む人々の怨念が込められていて、それでいて「都会に出てきた人間たちのわがままな冷たさ」も同時に歌われているという、恐ろしい歌だからだ。

以前、マツコデラックスが何かの媒体で、「東京にいる人間は、東京に来て変わりたかったというが、本当は変わりたくなかったから上京したのだ」といった内容の話をしていたが、僕はこの発言に尽きると思う。

だから、地元が東京出身の人間の上京物語は、ない。あったとしても、それは「田舎から出てきた人間から語られる上京物語に影響を受けたもの」でしかない。

東京の人たちは田舎モノから耳にする上京物語を聞いて、そんな憧れを地元に持っていないことに気づいて、ただ寂しい。ワガママな田舎モノからすれば、その寂しさは、「初めから東京にいるクセになに言ってやがる」になってはねのけられるので、余計に寂しい。

上京物語とは、結局「上京物語を通して自分のワガママとそれに至る経緯を語り、共感する」というようなものに過ぎないのかもしれない。しれないけど、田舎モノだって寂しいは寂しいし、田舎にいたらもっと寂しかったかもしれないと怯えているのだ。

お互いで寂しさの度合いを測りあうような競争は、おそらく無意味だ。しかし、お互いの寂しさを認めて、優しくし合うことには意味があると、僕は思う。

田舎モノと東京の人、どちらにも優しい上京物語があればいいのだけど、それは何も別に「上京」がテーマでなくてもいいかもしれない。

 

 

 

 

さようなら、しょうたろうさん

 

疲れていたり、人やモノに頭をぶつけたりすると、目の端を透明な細長い虫が飛び回ることがある。飛蚊症というものだと思うけれども、他の人にもそんな見え方をしているのかは分からない。

はじめてこの症状があらわれたのは、10歳くらいの頃だ。徐々に視力が低下したため、周囲の輪郭がぼやけて、モノと人との境界が分からず、よく身体を壁にぶつけたり、転がったりするようになった。その度に、ウヨウヨと透明な虫が視界一面を飛び回っていたのだ。

視力が落ちていっても、親に言い出すことができなかった。言い出せば、怒られると思っていたからだ。きっと、普段見えてはいけないものが見えているのだから、それを見てしまっている自分はとても悪い子なんだ、と口をつぐんでいた。

いよいよ、黒板の字が目で追えなくなった頃、気づいた担任が親に報告し、僕は眼科に連行された。飛蚊症についてもそこで白状させられた。眼科の医師は「今の頃から悪くなると、成長期が終わるまでは様子を見ないといけませんね」と、大きな顕微鏡みたいな装置で、僕の目をまじまじと覗きながら言った。

「どうして言わなかったの?」と、帰りに母からひどく怒られたことを覚えている。そうやって怒られると思ったからだよ、とは言えなかった。ごめんなさい、と謝るしかなかった。

飛蚊症は、滅多にあらわれるものではない。サッカーでボールをぶつけられたり、玄関のドアに頭をぶつけたりする時に、チラチラとあらわれる程度である。少なくとも、中学生までは、様々なトラブルに遭遇したけれども、平穏な視界を保つことができていた。

高校に入ってはじめて、しょうたろうさんからの頭突きを受けるまでは。

 

 

高校は、地元・北九州の公立校に進学した。校歌とは別に賛歌という学校を称える歌も覚えなくてはならず、重要な行事では、初代校長がつくったという短歌2首も声を張り上げて斉唱しなくてはならない。文化祭や体育大会は、多くの学生が感動のあまり大泣きをして終わるのが通例となっている。硬派な学校だ。

校舎は小高い山の頂上にあるため、毎日、西鉄バスが社内に大量の学生をぎゅうぎゅうに積めて、急勾配をノロノロと登っていく。バスの車内では、皆が毎日課されている数学の宿題を友人同士で必死に写し合うのが日常風景になっていた。ほとんどの学生が国公立大学を目指すため、0時限目から7時限目まで授業があり、宿題の量も、補習の量もとても多かったように思う。

始めてから二回目の数学の授業の日、宿題をしてこなかった生徒の机をひっくり返し、カバンの中身が全部ひっくり返ったのを「拾え」と命じて、シーンと静まり返った教室の中黙々と拾わせ、「拾った?そしたら帰れ」と、無理矢理帰らせようとする教師もいた。僕の知り合い2人が学校の授業についていけないことを理由に、途中で退学している。

そんな学校で、僕はしょうたろうさんに出会った。入学して2日目、廊下を歩いていたら、急に「おい」と呼び止められたのである。

「肩がぶつかったぞ」と言われ、僕は何も言い返せなかった。肩などぶつかった覚えがないからだ。冗談か何かかな、と少し笑って、声をかけてきた人間の顔を見た。その顔は、ずいぶんと僕のはるか上にあるように感じた。

「謝ることもできんのか」

おもむろに頭を両手でしっかりと掴まれ、重く鈍い感覚が頭の中心からジーンと広がっていった。飛蚊症で、透明な虫がまたたくまに視界を埋め尽くした。

最初は混乱していて何をされたのかよく分からなかった。男の笑っているのか怒っているのか、見分けのつかない顔がぼんやりとそこにあるのが感じ取れるだけだった。

“くらされた”(北九州弁で暴力を受けたの意味)と理解したのは痛みが随分と実感できるようになってきてからだった。彼は僕に初対面で頭突きをしてきたのである。ただただこわくなって、素早くその場で深くお辞儀をして、逃げるように離れた。

彼の名前が、しょうたろうという名前で、周囲の人間は同い年であるにも関わらず皆が“さん付け”を自発的にしていることを知ったのは、間もなくのことだった。

しょうたろうさんと僕とは別のクラスだった。一年生では滅多に外のクラスとの交流がないため、廊下ですれ違うくらいの接点しかなかったように思う。ただ、たびたび出くわすと足をひっかけられたり、後頭部を教科書の角で叩かれたりした。モゴモゴと口の中で、ごめんなさい、と謝って立ち去ることしかできなかった。

こわかった。抗議しようにも、僕よりも身長が高く、一重まぶたの鋭い眼光で僕を見つめてくる彼に、言葉が通用する気がしなかったのだ。しょうたろうさんは、痩せ型で、校則ギリギリまでカットした短い眉毛と、一重まぶたで少し斜視が入った目が特徴的な男だ。肩がいつも釣り上がっていて、少し前のめりに歩くので、いつも何かに怒っているように見えた。

あの頃、彼が僕の名前を知っていたのかも分からない。会えば、何かしらの理由をつけて“くらされた”。「目が合った」、「肩がぶつかった」、「俺の前を歩いた」、「俺より先にドアに入ろうとした」、「足がひっかかりそうになった」…

どうして、僕が彼に目をつけられたのかは分からない。それまでも幾度かイジメには遭ってきたので、僕から“イジメてもいい”という匂いを嗅ぎ取ったのかもしれないし、僕のやりがちな卑屈な防御(弱さを隠すために、他人に壁をつくるクセとでも言えばいいのか)が彼のシャクに触ったということかもしれない。

正直なことを言うと、僕を“くらす”人間は、しょうたろうさんだけではなかった。僕の書いていた詩のノート(僕はその頃文芸部に所属していた)をビリビリにやぶいて一枚ずつ各クラスの黒板に貼り付けていったAや、学校裏サイトに僕の名を騙って気持ち悪い書き込みばかりをしていたBや、ニヤニヤと笑いながら僕にコンドームや誰かの陰毛を無理矢理両手に握らせてきた野球部のCなど、印象的な人間はたしかにいた。

しかし、どうしても、しょうたろうさんの方が彼らに比べてはるかに印象が強いのである。

僕がしょうたろうさんの本当を知るのは、二年生で同じクラスになってからだった。

 

 

二年生のクラス替えは、文系か理系かという、だいたいの枠組みで決まる。たまたま僕の所属することになった文系クラスには、野球部、バスケ部、ラグビー部のエースなど、一年の時点で悪評の高かった人間ばかりが集まっていた。その中に、しょうたろうさんもいた。

僕はただただじっと黙るしかできなかった。座る椅子も、使う机も、どれも自分の自由にならないような気がして、縮こまっているしかなかった。

その頃、僕にはもうひとつ抱えている問題があった。明らかに学校の勉強についていけなかったのである。中学生までは比較的、優等生として学校でも上位の成績をキープできていたのだけれど、高校に入った途端、まず、数学でつまづき、英語も次第に分からなくなり、毎日の宿題もこなせず、テストでも平均より少し下にまで落ちていった。

しかし、入学当初からの勉強ができる優等生という雰囲気は崩せないままでいた。実際は、勉強に追いつけないにも関わらず、真面目にノートをとり、授業をちゃんと聞くという態度を変えることができなかった。今考えてみれば、優等生以外の身の振り方を知らなかったから、そのまま続けざるを得なかったのだと思う。

勉強ができない、それはクラスの中での自分の立ち位置を失うことと同義だった。今の自分を保つためには、2つの道しかない。1つは今以上に努力して勉強できるようにするか、もう1つはなんとか勉強できる雰囲気だけでごまかしていくか、である。

僕は後者を選んだ。あとで勉強してく中で帳尻を合わせられればいいのだから、今は真面目な態度を崩さずにいようとしたのである。足場がぐらついていることが他人にバレるのが怖くて仕方なかった。そんな気持ちが、より一層僕の身体を硬直させていた。

隣の席は、しょうたろうさんになった。はじめの授業から、しょうたろうさんの態度はひどかった。明らかに退屈な授業では眠り、気に入らない教師にはガンを飛ばし、イヤホンを学生服の袖に隠して、ずっと何かを聴き込んでいた。

クラスも少し落ち着きはじめた頃、しょうたろうさんが、僕にノートを見せろと言ってきた。今日、提出する必要の答えを写させろと迫ったのである。

ぶんどるように僕のノートを奪いパラパラとめくりながら、いつもの怒っているのか笑っているのか分からない表情で、こう言った。

「おまえ、思ったより、あたま悪いんだな」

随分と早い失墜。当然だった。ノートにはとりあえずデタラメでもいいから埋めようと書いた適当な計算式と、授業の進行が早すぎて板書を写せないまま書きかけになってしまった文章が散逸していたからである。

僕は自分の体温がスッと下がっていくのを感じた。ただただ、浅い笑顔を顔に貼り付けて、力なく息を漏らすのが精一杯だった。笑っているつもりだった。

しょうたろうさんは乱暴にノートを突き返すと、やはり僕の顔を両手でしっかりと掴んだ。そのまま、吸い込まれるように前頭部が近づいてきて、鈍い痛みが響いた。

「これは、お前への罰やけな」

恥ずかしい。それがその時、僕の心を占めていた気持ちだった。ただ、うなだれて、何も言い訳できない自分が恥ずかしい。勉強できない自分が恥ずかしい。頭突きされても言い返せない自分が恥ずかしい。

しょうたろうさんは覗き込むようにこちらを見つめてくる。斜視の入った彼の目から、僕は何も読み取ることはできない。ただ、僕のすべては、この目に読み取られているという恐怖ばかりがあった。刺される。そう思った。

「教育するけな」

しょうたろうさんはそう言って、少し笑った。

 

 

「教育するけな」

僕がその言葉の真意が分かるようになるのに、そう時間はかからなかった。授業中、常に刺さるような視線が僕につきまとうようになったからである。

50分の授業が終わり、10分休憩が始まる。そのサイクルごとに、しょうたろうさんが僕の席の前に立つ。

「さっきまで貧乏ゆすりしとった」

「ノートが汚い」

「ちょっと、居眠りしとった」

「先生の問題に答えられんかった」

「宿題ができてない」

こうした注意を受けた後に、僕は必ずゲンコツをもらう。それが毎時間の決まりになった。

しょうたろうさんの挙げる指摘は、どれも本当に僕がその時間にやってしまったことだった。彼は僕が言い訳ができないように、ひとつひとつしっかり確認していたのである。そして、殴られた後は必ず僕に、「ごめんなさい」か「ありがとうございます」と言うように強制した。「どうして、いちいち指摘してやってんのに、感謝のひとつもせんのか」と殴られた。

「これは教育やけな」

この言葉は、しょうたろうさんが僕に発する口癖のようになっていた。教育。僕は教師の授業を受けながら、常にしょうたろうさんのことを気にしなければならなかった。どうしてこんな目にあっているのか、自分でもわからなかった。ただ、毎日のように、飛蚊症が続いた。頭に漫画のようなコブが数個できることもあった。てっぺんに触れるとチクリと痛かった。

この頃の気持について、僕はとてもはっきりと覚えている。毎日「どうやったら、しょうたろうさんに怒られないように済むか」ということばかり考えていたからだ。家に返って、お風呂に入り、自分の腕や太ももについた青アザをみて、「次はどう言ったら殴られないだろう」と、必死に考えていた。

オーバーに思われるかもしれないけど、思考というのはとても単純で、毎日痛みを感じていると、そのことに意味を見出そうとしてしまうものだ。 これは、僕の普段の行いが悪いから、あるいは僕という人間がどうしようもなく駄目だから。「“だから”叩かれてもしょうがない 」という気持ちが生まれる。僕は叩かれても当然のことをやっているのだ。なにせ、勉強ができないし、友達も少ない、そして自分の気持ち悪さを自分が一番良く知っている。

裁かれている。しょうたろうさんは、わざわざ僕のために時間を割いて裁いてくれている。日頃、彼が僕に説教する時に使う言い回しがあった。

「お前が余計なことをしなければ、俺も説教する時間が減るんやぞ、俺の時間奪いやがって」

「わざわざこうやって、お前を教育しているのは、お前が少しでもクラスに溶け込めるようになるためぞ」

「お前みたいな気持ち悪い人間を、そのまま世の中に出せるわけないだろ」

読んでいる読者の中に、“洗脳”という言葉が思い浮かんだ人がいたなら、多分その連想は正解なのだと思う。弱み、コンプレックスにつけこんで、暴力と言葉で支配する。しょうたろうさんが、どこまでそれを意図してやっていたのか分からない。あるいは本気で教育しようと思っていたのかもしれない。

 

5 

 

しょうたろうさんの正解とはなんだろうか。

次第に二年生の生活に慣れてきた僕にとって、一番の問題はそれだった。

しょうたろうさんが、僕の行いに間違いを見出して正してくるのであれば、どこかに必ず正解があるはずだ。彼に自分なりの“正しさの定規”があり、それで僕を測っているならば、僕はその定規の目盛りさえ知ってしまえば、今よりずっと楽になれるはずだ。

いっそ彼のようになってしまえば、僕の駄目な生き方は本当に矯正されるのかもしれない。何せ、彼の周りには(それが逆らえないという恐怖に由来するものであっても)常にクラスメイトが集まり、明らかにクラスの顔役的な存在だったのだ。教師ですら、彼の反抗的な態度に手を焼きながらも、どこかで一目置いていることが見てとれた。悪い生徒ほど可愛げがあるということだろうか。北九州の中では真面目な進学校に分類されるこの高校で、彼のような古風で硬派なヤンキー的素振りは、キャラクターとして立っていたのだと思う。

そのうち、僕はしょうたろうさんに殴られる中からも、彼の言動をじっくりと観察するようになっていた。

意外に思われるかもしれないが、彼は僕にとても優しい時があった。気分が良かったのか、教育の一環だったのか、僕に何枚かのCDを貸してくれたことがあったのだ。

はじめて、貸してくれたCDはHi-STANDARDのアルバム『MAKING THE ROAD』だった。その頃、僕はNUMBER GIRLNIRVANAを愛聴していて、クラスのごく一部の男子と密かにCD交換のやり取りをしていたのだけど、そのことが彼にバレた後のことだったと思う。

「お前、そんなんも聴くんか」

という言葉に、思わずビクリとした。自分の好きな音楽も不正解だと、ボコボコに叩かれるんじゃないかと身構えた。しかし、彼は殴ってこず、結果、自分の(発売されたばかりで当時は珍しかった)iPodから、OASISのアルバムをセレクトし、「バレんように聴け」と授業中に貸してくれた。聴いている間、しょうたろうさんがこちらを見て嬉しそうにしていたのを今でも覚えている。

You Tubeって知ってるか?違法で映画観れるサイトがあってな」

当時、まだグーグル傘下にないグレーゾーンだったYou Tubeを僕に教えてくれたのも、しょうたろうさんだった。そこで、いくつかの動画を観るように推薦されたのも覚えている。

彼は、音楽の趣味で言うと、いわゆるメロコアと呼ばれるものを愛聴していた。当時は、青春パンク大流行の時代だったが、そうしたものをどこかで軽薄とする考えがあったように思う。帰宅部ではあったが、ギターが弾けるので、文化祭ではHi-STANDARDの曲を披露していたことも覚えている。

僕が買ったばかりのイヤホンを学校に持ってきた時、早速それを分捕って、自分のものにした時、「お前のものは俺のものだからな」とジャイアンと全く同じセリフを言った時は、つい笑ってしまった。しょうたろうさんに自分が選んだものが気に入られたことが、少し嬉しい気さえしたのだ。結局イヤホンは返してくれなかったが、そんなことはささいな問題だった。

また、彼は学校にバレないよう、吉野家バイトしていた。「自分で欲しいものは自分で稼いで買うべきやろ。親におごってもらったモノで遊ぶのは情けない」というのが、彼の言い分だった。その金でバイクを買い、免許も取得し、友人と遊び回っていることも知っていた。ただただ羨ましい、という気持ちがあった。それまで、自分でお金を稼いだこともなく、欲しいものは親が買い与えてくれていたからだ。しょうたろうさんの行動は、自立しているように思えた。

彼女もいた。別の学校の女の子で、金髪が派手目な細身の女性だった。実際に会ったことはないけれど、一度携帯で写メを見せてくれた。エッチは、受験が終わるまでとっておいていると言っていた。「そうした方が、受験のモチベーションが上がると、受験マニュアルに書いてあったからな」と、笑いかけてきた。

彼は、実際勉強ができていた方だったように思う。僕が勉強についていけず不定期に予備校の講座を受けていることを、いつも馬鹿にしていた。「親に高い金を払わせて、そのクセ、勉強もできないとか本当に駄目なやつだな」は、僕を殴るときの常套句だった。裏を返せば、授業だけですんなり勉強が頭に入ってくる地頭の良さを誇っているようなところがあった。

これは、本当に恥ずかしいことなのだけど、時折彼は僕を抱きしめたり、両手で顔を掴んでじっと眺める事もあった。そうやって、僕が驚いたり、震えているのを楽しんでいるようなところがあった。その後、優しく撫でられて心底ホッとすることもあったのだ。

僕はしょうたろうさんのことを知るにつれて、本当に彼のことを憎んでいるのか分からなくなってきた。いや、もしかしたら本当は最初から憎んでなどいなかったのではないかとさえ思う。何せ、彼には彼なりの生き方の美学があり、それを押し付けようとする強引さがあるだけだからだ。

彼の美学は、「他人に頼らず、権力には反抗し、自立して生きる」という風にまとめられるかもしれない。少なくとも、長く観察してきた僕にはそのように映った。

北九州のヤンキーについて、友人がこんなことを言ったことがある。

「ここのヤンキーは強いだけじゃ駄目なんだ。おもしろいことが言えないと駄目なんだだ。自分がやったことを面白おかしく話せる。そこで尊敬されるかどうか決まる」

僕はこれほど地元の人間のことを的確に言い表せた言葉を他に知らない。そして、僕の中でこの言葉にぴったりと当てはまる人間を、しょうたろうさん以外に知らない。

 

 6

 

次第にではあるが、僕はしょうたろうさんの考えや所作を自分なりに身につけられるようになった。

まず、ナメられないようにする。それが肝心だった。

例えば、こわい人間に「あ?」と凄まれたら、「ごめんなさい」と言ってはいけない。「あ?」と返すべきなのだ。そうすることで、はじめて対等な位置に立てるということを、僕はしょうたろうさんから学んだ。そうなると、ケンカにつながることはあまりない。殴れば話が大きくなり、学校にバレて問題になるからだ。あくまでも進学校であるため、大きなケンカに発展することを皆心の底でおそれていたのだ。

ためしに、これまでナメた態度でちょっかいをかけてきた人間に、少し険しい顔で迫ってみた。

「お前、そんなキャラだっけ…」

と、そいつの声が少し小さくなるのが分かった。少し心地よかった。

それから、授業や催し物でも出来る限り、不真面目な素振りを(しょうたろうさんに叩かれないような態度で)見せるようになった。校歌は歌うフリをする。つまらない授業の時は袖元に隠したイヤホンで好きな曲を聴く。学校の催し物からは逃げて、空になった教室で数人でダベる。すると途端に、教室にいることが楽になった。

クラスの中で肩パンが流行った時に、僕は進んで参加した。肩パンとはどちらが根を挙げるまで、お互い交互に一発ずつ肩に渾身のパンチを打ち込むというものだ。僕は普段気に入らない野球部の人間を本気で殴った。向こうが痛そうな顔をする時、少し誇らしい気分がした。家の風呂場で自分の腕と肩が赤く腫れ上がっていても、気分はよかった。

恋もした。といっても、それは自発的なものでなかった。周りの会話に合わせるため、背伸びをしたのだ。好きな人がいるという話になれば、そういった類の会話にも参加権を得られる。「こいつでも、そんなことに興味を持つんだな」という考えを相手に与えられる。だから、僕は恋をしようとして、ひとりの女の子とメールのやり取りやMDの交換をした。その娘を特にかわいいと思ったことはなかった。恋に恋しようとしていただけだ。そして、告白することもなく自然消滅した。友人との話題を盛り上げるためだけのものだったので、それでよかった。

気がついたら、昼食はラグビー部やバレー部のクラスメイトたちと囲まれて食べるようになっていた。普段、イジり以外では絡んでこなかった男子が接するようになってきて、昼食をいっしょに囲むようになっていた。妙な居心地の悪さはあったが、日常はこれまで以上に平穏になった。

「ずっと大人しいグループにいると思ったけど、しょうたろうさんのグループにいるんだな」

理系にいる知人が最近の僕を観て、そんなことを言った。自分でも言われて、はじめて周囲の人間が変わっていることに気づいた。

弊害もあった。それまで仲の良かった友人たちの何人かが、僕から離れていったのだ。男子の悪ノリが嫌いな女子から白い目で見られるようになった。本の貸し借りをしていた友人が話しかけて来なくなった。

特に文芸部の友人には悪いことをしたと思う。同じクラスにいるのに普段会話ができなくなり、関係がギクシャクしてしまった。僕の創作ノートの片隅に、「さみしい」と彼が書き置きしたのを見つけて、とても暗い気持ちになったこともある。

こわかったのだ。しょうたろうさんに嫌われることも、クラスメイトにハブられることも。自分の所在のなさに耐えられるような人間ではなかった。傍から見れば、ぼくはしょうたろうさんにくっつくコバンザメみたいに見えただろう。何せしょうたろうさんは僕の正解を握っていたので、彼の生き方から学ぶことは自然なものに感じていた。

二年生の二学期半ばごろから、しょうたろうさんの僕への暴力は著しく減った。信じられないことだが、CD交換や本の交換までひんぱんに出来るようになっていたのだ。彼の紹介で他クラスにも知り合いが増え、たくさんの人たちに囲まれて過ごすことが出来た。

今でも、あの頃は楽しかったと思う自分がいる。一方で楽しんでいた自分を嫌悪してしまうこともある。僕は、しょうたろうさんに学ぶという建前で、自分で物事を考えることを放棄していたのだ。それは、暴力によって思考放棄させられていたという言い訳はできる。だけど、本当にしょうたろうさんと肩を並ばせることができるのだとしたら、彼と同じように自立し、誰にも遠慮なく接せられるようにならなければならない。しょうたろうさんの正解を目指すことは、しょうたろうさんが眼前にいる以上、不可能であるように思えた。

スキー研修で、長野に行った時の話だ。僕は思った以上にスキーの習得がはやく、クラスメイトの中でも上手い側に入ることができた。雪原を楽々と滑っていけることに、とても充実感を感じていた。そこには、普段運動音痴な僕を馬鹿にしている人間より上にいるという優越感も含まれていた。楽しかった。

リフトでたまたま、しょうたろうさんと乗り合わせた。昼の雪原は太陽の反射であまりにまぶしくて、僕はずっと空を見上げたままだった。少し目がくらんで、視界の端に小さな透明な虫が素早い勢いで通り過ぎたのが分かった。

「楽しいか?」

「うん」

「そうか、これでお前は自殺せんですむな」

今でも、僕はこの言葉の真意をつかめないでいる。しょうたろうさんはどこかで、自分の暴力で僕が壊れてしまうことを恐れていたのだろうか。それとも、自分と同じ道を順調に辿れるようになって、孤立せずに済むようになったことを指していたのか。もしかしたら、そのどちらも考えていたのかもしれない。ただ、しょうたろうさんは明らかに笑っていた。普段、感情を読み取りづらい斜視な目は、ズレているけれども、こちらをしっかりと見据えていた。

 

 

実は、三年生の頃になると、僕としょうたろうさんの関係のことで語ることはほとんど無くなる。同じ国公立の進学コースのクラス所属になったけれど、皆が皆受験モードでピリピリしはじめたこともあって、悪ふざけは著しく減ったのだ。全員が全員、自分の進路のことだけを考えていて、周りにかまっている余裕がなくなったのだろう。僕と、しょうたろうさんも、その例外ではなかった。とてもつまらない一年間だったように思う。

僕はいよいよ数学の授業についていけなくなり、途中から私立大学へ進路を変更した。幸い、国語だけはクラスでも3,4位くらいには入り込めたので、文系教科だけに集中すれば、なんとかなりそうに思えたのだ。

進路変更のことで教師と対立したり、受験勉強中に何度も腹痛で病院に通ったりもしたけれど、そんなものは二年生の頃の出来事と比べれば、なんとも味気のないものだった。

しょうたろうさんは関西の公立大学へ志望願書を提出していた。たしか教育学部だったように記憶している。彼は最後の体育大会で応援団長を担当し、受験と催し物の両立の中でとても充実しているようだった。僕と話す機会もなくなった。

二年生の頃には良くも悪くも存在していたクラスが一丸となっている雰囲気も、三年生時にはもう崩れていた。僕は、一体なんのためにあそこまで周囲に気を配っていたのだろうと、徒労を感じていた。寂しかったのである。

そのせいもあったからなのか。僕は授業中ふざける態度をなるべくとるようにした。授業中に偏屈なことを言ったり、トンチンカンな回答を出して、周囲を笑わせた。自分が二年時に学んだ悪ノリを、受験期にも変えずに押し通そうとしたのだ。気がついたら、僕はクラスで一番おもしろいやつということになり、学級アンケートでも機会があるごとに名前が挙がるようになっていた。

しかし、しょうたろうさんの背中を追って、出来上がった自分は、完全に悪ぶることもできない、かといって優等生にも戻れない、とても中途半端なものだった。そして、そんな自分の立ち位置を気にする余裕もなかった。授業中の悪ふざけは、そんな自分を慰めるものでしか無かったのかもしれない。

高校生活最後の文化祭や体育大会が終わるたび、みんな驚くほど号泣していた。馬鹿じゃないかと思った。そんな学校の側から強制的にやらされている催しに全力を投入するより、空き教室でダベっていることが圧倒的に正しかったからだ。提供されたルートに本気になってはいけない。あくまで茶化す態度で、ほどほどに楽しむ。それも、しょうたろうさんの二年生の頃の振る舞いをみて学んだことだった。

「俺も毎日三時間も寝てないんだから、お前らももっと頑張れ。受験を超えれば全てがうまくいんだから。ここが人生の正念場だぞ」

担任の叱咤激励も寒々しく感じた。どうしてこいつの言葉に皆が動かされているのだろう。心底嫌悪した。今思えば、担任もかわいそうな立場にいた気がする。高校の、国公立大学進学率を気にして組まれたカリキュラムの中で疲弊していたのだと思う。

ただ、いっさいは過ぎていった。

僕は、第一志望だった大学に落ち、保険で受けた東京の大して頭のよくない私立大学に受かった。クラスの中で東京に進学したのは僕だけだった。

 

 

卒業式の日、僕はある計画をたてた。

それは周囲の友人たちと示し合わせて、感動ムードを台無しにして終わらせようという計画だった。最後のHRで、全員が教室に集合し、一人ずつスピーチをする時間が設けられていたのだが、僕と仲の良いメンツでほんとに馬鹿馬鹿しいスピーチをして周囲を茶化し、泣くのも馬鹿馬鹿しいくらいにお笑いにして締めようというものだった。それが僕がこの学校でやれる最後の小さな反抗だったのだ。しょうたろうさんも含め、周りの友人たちも乗り気で、どんなネタをぶっこもうかとお互いに画策していた。

「ここのヤンキーは強いだけじゃ駄目なんだ。おもしろいことが言えないと駄目なんだだ。自分がやったことを面白おかしく話せる。そこで尊敬されるかどうか決まる」

この言葉がふたたび脳裏を過ぎったことを覚えている。最後におもしろくして終わる。それが、僕がしょうたろうさんに教育されて歩んだ道であったし、自分の目指す道でもあった。それが結実して、僕の高校生活の締めくくりとする。

出席番号順で、女子からスピーチは始まった。皆が皆、大したことないエピソードをだしては泣きじゃくる。こいつらも感動しなきゃいけないムードだからそれに合わせているだけだ。美学に沿ってはいない。あくまで自分を押し通し、周りを巻き込んでいく。そうあるべきだよね、しょうたろうさん。

男子の番になった。それぞれ先ほどの感動ムードとはうってかわって、授業中に恥をかいたことや、主旨と全く関係ないことをスピーチしていく。先ほどまでのお涙ムードがようやく弛緩する。シメた!これで、しょうたろうさんの番まで回れば、この三年間は正解になる。僕は正解に忠実にいられたことになるのだ。

しょうたろうさんが、壇上に立つ。その顔はいつもの笑っているのか怒っているのか分からないものだった。しかし、何かが違った。しゃべらなかったのである。長い沈黙が教室を包んだ。やがて僕は気づいた。教壇に数滴ポタポタと涙がこぼれ落ちていることに。

「…この三年間、本当に好き勝手やってくれた俺をあたたかく見守ってくれたお母さんと親父。そして、最後まであたたかい雰囲気で支えてくれたクラスの皆。そして、サイテーだけど、最高だった担任。ほんと、俺はみんなに感謝して…マジでサイコーだったと思う。こんなクソみたいなやつに楽しい思いをくれてありがとう…」

クラスが泣いた。ただ、僕だけを残して。

 

 

裏切られた、と思った。最後に正解からも突き放されてしまった、と思った。在校生からの花を両手に携えて一人帰宅する道を歩きながら、僕はそのことで呆然となっていた。

わからなかった。どうして、しょうたろうさんが泣いたのか。わからなかった。どうして、しょうたろうさんが「ありがとう」なんて言ったのか。

違うじゃないか。しょうたろうさんの進んできた道は、他人の敷いたレールに乗らないことだったじゃないか。しょうたろうさんが尊敬しているといった尾崎豊の曲だって、そんなことは歌ってなかったじゃないか。しょうたろうさんが僕を殴りながら教えてくれたことに、感謝なんてものはなかったじゃないか。

あのスピーチのあと、僕は何とも気の抜けた締まらないスピーチをして、ちょっと微妙な笑いをとって終わった。その後、しょうたろうさんとは顔も合わせられなかった。向こうにもそんな余裕はなさそうだった。彼は担任や同級生と抱き合うことに忙しそうだったから。

結局、なんだったのだろう、と思った。この三年間は一体なんだったのだろう。このしょうたろうさんの教えてくれたものはなんだったのだろう。僕が一生懸命だったものは、なんだったのだろう。

問いに答えてくれるものはなかった。正解なんてはじめからなかったのかもしれない。僕が勝手に、しょうたろうさんからの暴力にアレコレと理由をつけていただけで、根本的に理不尽なもの、だったのかもしれない。

そうじゃない、と言ってほしかった。あれは教育だったと言ってほしかった。僕のやったことに責任をもってほしかった。この青アザに、たん瘤に、理由が欲しかった。自分が進んだ道は間違ってなかった、と言ってほしかった。

僕は逃げるように学校を離れた。ほとんどの人間にロクな挨拶もせずに逃げるように立ち去った。誰とも二度と会いたいとは思わなかった。

一人になった。いや、最初から一人だったのかもしれない。誰も僕に関心などなく、ただその場にいるから相手をしている都合のいい人間だったのかもしれない。僕が周りに対してそう思う程度には。

しょうたろうさん、とつぶやいてみる。なんだか空々しい気持ちがした。安っぽいドラマを観ている時のような、いたたまれないという感情さえあった。なんだか、急に、しょうたろうさんが可哀そうに思えてきた。

バス停に立ち、何本も通り過ぎていくバスを眺めていた。帰途につく卒業生がそれぞれのバスに乗り、やかましく立ち去っていく。どれもこれも見知った顔だったが、何の感慨も浮かばなかった。もうどうせ二度と会うこともないのだな、と不思議と安心していた。

空を見た。夕焼けの中、白い透明な虫が、自分の視界の中央をスーッと通り過ぎていくが分かった。透明なのに、どうしてこの虫は視界を遮ることができるんだと思った。目を固くつぶり、白くぼんやりとした光の筋が完全に消え去るのを待った。ふたたび、視界を開けた時、そこにはなにもなかった。なにもなかったのである。